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雪という現象についての素描—現象チームでの研究を下敷きに

先日、現象チームで研究開発を行う傍らで、都市計画学会の学会誌『都市計画』へ論文を寄稿する機会をいただきました。テーマは「雨は都市の味方にできるか?」というものです。

その中で、現象チームは「雨という現象を再設計する風の研究から考える気象と空間の新しい関係性」という文章を寄せました。現在われわれが風という対象をベースに実践しているアプローチを踏まえた上で、それらを雨という対象においても、同じように取り扱うことはできるだろうか?という思考としてのプロトタイピングを、論文の中で行ったものです。関心がある方はぜひご一読をいただけたらと思います。

都市計画学会WEBサイト

https://www.cpij.or.jp/com/edit/backnumber.html

今回のコラムは上記と同じ興味関心を起点に雪という対象に向き合ってみたものとなります。
 

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雪が降っている。

生まれ故郷である福井県のとあるカフェにいる。年末ということもあって店内は混み合い、隣の公園では子どもたちが雪遊びをしている。雪が降る様子は不思議だ。しんしんと降っている、その視覚的なインパクトとは裏腹にその降り積もる様子に対して音が鳴らない。雪とはサイレントな現象である。

雪はきわめて物質的だ。どこか粘土のようで、触れれば形を与えることができる。明らかに個体でありながら、熱とともに蒸散し消えてしまう。その点で雪は、雨とも土とも異なるエコシステムをもっている。雨は流れ土は残るが、雪は「消える土」のように彫塑性と刹那性を同時に備えている。雪だるまや雪玉というのはそのような例であり、あるいはウィンタースポーツなどはその筆頭だろう。

雪道では、前を歩く人の足跡が決定的に重要になる。轍が次の行為を導く。雨が降ったとき、みずたまりなどによっていつも歩いている道路の凸凹に気が付かされるときがある。まっすぐに見えていた道が実はくぼんでいたんだ、ということが降雨によって気がつく。その意味において雨というのは地球という大変にでこぼこしているものを、まんまるへと近づける装置なのだと思える。ところが、雪はそうではない。雪はその場の形を垂直方向にオフセットしてふくらませる。屋根に積もれば屋根は分厚くなり街には一枚、別の地層が重なる。流れる雨と違い雪は留まり堆積する。

この堆積性が、雪のもっとも大きな特徴だろう。街の風景は一変する。雨よりもはるかに過激で決定的な変化だ。その結果として交通は滞り寒さは体温を奪う。しかし、雪がもたらすのは一瞬の破壊ではない。地震のように時間あたりのエネルギーが集中する災害と異なり、雪はゆっくりと累積し ある閾値を超えたときに事態が反転する。雪はグラデーショナルな存在である、ということも可能だろう。

 

雪がグラデーショナルな存在である、というのは積雪量によっては災害にもなり、反対に遊び場を生み出すという点にある。積雪は事故を生む一方で、ある環境においてはレジャーを生み、スポーツを生み、新しい身体性を生む。摩擦係数が極端に下がる環境のなかで、人は歩き方を変える。ペンギンのように歩く、という雪国の知恵は象徴的であるが、それが意味するのはある現象に覆われたとき、人は身体のモードを切り替えるという当然の事実である。

一般に田舎や自然、と呼ばれるフィールドで培われる身体性は、こうしたモードの複数性から生まれているのかもしれない。土や泥、雪、水といった様々な現象に接続された活のなかで、人は環境ごとに異なる身体を持つ。自然的であるということは、単一の身体ではなく、切り替え可能な身体を持つことなのだろう。

通常、町中や都市空間において雪は、管理されるべき対象である。しかし、雪が物質=個体として現れてしまうと、体積を減らすことは容易ではない。最終的に必要なのは、雪よりも暖かいもの、すなわち水である。水に戻し、流すしかない。この点で、雪はストックであり、水はフローだと言える。私もも子供の頃から、雪が降れば家のとなりにある用水路に雪を流していた。ストックをフローに還元していた。福井県のある年、災害級の豪雪に見舞われた際には福井県庁のお掘に雪が排雪されていて、けれどもあまりにも雪がおおいのでお掘が埋まるどころか、お堀の上にうず高く雪が積もっている事態になっていたことをありありと覚えている。

このように雪と災害は私において分かちがたく結びついているわけだけれども、同時に興味深いのは、雪というストックが、レジャー性を生む点だ。たとえば仮に、町中で水が過剰にストックされていたとしても、遊び場は生まれにくいような気がする。しかし雪は、その過剰性のなかから遊びや彫塑性を立ち上げる。雪を一時的なフローとして扱うとき、雪は粘土のような性質を獲得し、新しい振る舞いを生み出す。

こうした雪の捉え方は、四季という時間感覚に支えられている、と思う。雪はいずれ消える、という前提があるからこそ、人は雪にポジティブに向き合える。刹那性は締切を生み、その締切が構えを生む。もし雪が恒常的に存在するものだったなら、対応やデザインはまったく異なるだろう。とある地域で、恒常的に雪に向き合っている人のインタビューの中で「雪が憎い」という発言があったことを思い出す。雪と向き合い続けることの困難をあらわす一言だと思う。雪が溶けることと常にあることに対する精神性は、全く異なったものとしてて体現れる、ということ。

雪をグラデーションとして捉えると、ネガティブとポジティブは常に併存していることがわかる。これは地震も同じだ。基本的に地震は災害であるし、その影響も極めて甚大である。しかしながら同時に、地震がおきる環境—活火山やプレートの地殻運動によって、温泉や和食の食文化、出汁や海産物なども生まれている。破壊と生成は同時の事象なのかもしれない。

 

雪と空間性という観点で見れば、雪の価値は断熱性と遮音性にもある。雪が降ると街は静かになり、レフ板のように月明かりや街灯を反射することによって、夜はむしろ明るくなる。雪が降りしきった町中を歩いているときはもちろん寒いのだけど、なぜか変わった暖かさも同時に感じている。空気層が一枚挟まったような、インフレータブルなレイヤー感覚。薄皮ではなく、分厚い皮をまとっている感覚だ。その意味で言えば降り積もった雪とはダウンコートやファブリックのようなものかもしれない。すぐ溶け出してしまうアウター。

小さな頃からある程度雪が降るたび、何度もかまくらを作った。思えば人が出入りできるほどの大きさがある空間を立ち上げる、という原初的な体験はかまくらづくり、から来ているのかもしれない。かまくらとは自らが自らのために作り上げる洞窟だ。なかに入るとその静けさと暖かさに驚く。溶けてなくなるからこそ、大掛かりな何かを作っていても咎められることはなかった。かまくらの彫塑性とある種のDIY性は、その後の私のデザイン観に影響を与えているなと感じたりもする。

個人的には、雪が降る様子というのは雨のそれよりも美しいな、と感じることが多い。というのも雪が降る様は遅く、目で追えるからなのだろう。自分が理解できる範囲で雪という現象を噛み締めることができるからだろうか。おなじように、雨が降っているとき、車のフロントガラスに滴り落ちる雨をずっと見ていることができたのは、雨自体を見ることは難しいけど、フロントガラスを流れる雨は、理解して見ることができたからだったように思う。その意味でも雪という現象は理解の側に近しいのだろう。

雪が降っているとき、全天球が白んでいる空は、曇っているのに明るい。どこかドーム的で、光が強く拡散されている。この一様で柔らかな明るさは、本来、鑑賞空間に向いているのではないかと思う。鑑賞空間において理想的な照明の空間はときおり曇り空に擬えることがあるけれども、実は雪が降っている、あるいは雪が降っている際の空模様のほうが、より近いのではないか?と思ったりする。そこで空模様で何が置きているかといえば、空間的にはどこまでいっても細かな白いパーティクルが存在しているかどうかという違いだろうか。曇り空は、その曇り空まで距離が一定あるけれど、雪が降っているときの白んだ空は、この今目のまえで降っている雪そのものが、白んだ空を構成しているパーツなのが面白いな、と思う。この、こまかな白い粒が光を細かく反射拡散し、どこまでもどこまでも雪が降っていることによって、全天球が白む状態が生まれている。空間がキャンバスと化しているような状態。キャンバス空間としての雪はかなり優秀な気がしている。雪のような空間性を考えることが、これまでにない鑑賞体験を考えることにつながると面白いのかもしれない。

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(この文章は2025年の大晦日に書かれました。)

 

大栁友飛

デザイナー

「空間とはなにか?」という根源的な問いのもと、デザインを通じた空間の探求と可能性の拡張がミッションです。空間のデザインはもちろん、マテリアルの開発やシステムの構築、ときには研究をして論文や書籍の制作を行うなど、多岐にわたって活動中。

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